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【広島原爆】 藤森俊希さんの被爆体験

わたしは、1 歳の時、広島の爆心地から2.3 ?地点で被爆しました。

当時、わが家は祖父・父母・9 人兄弟姉妹の12 人家族でした。8 月6 日、わたし

は体調を崩して母に背負われ病院に行く途中でした。川の土手の上を歩いていた母が、

にぶい爆音を聞き、空襲かと身構えた瞬間、閃光が走り、猛烈な爆風が襲って母子と

も土手の下に吹き飛ばされました。偶然にも爆心と親子の間に2 階建て民家があり、

熱線を直接受けることは免れました。

わたしを抱いて土手の上にあがり母が見たのは、市中心部の上を煙と雲が覆い、一

面火の手が上がっている予想もしない光景でした。煙と火炎の真ん中には3 女・操と

4 女・敏子が通う市立第一高等女学校があります。敏子は1 年生、学徒動員で爆心地

近くの建物疎開にあたっているはずでした。

火焔に追われ母は、わたしを抱いて牛田山に逃げました。自宅にいた祖父と操、出

勤していた父、長女、次女も山に避難してきました。敏子が戻ってきません。小学生

だった長男と次男、学校にあがる前の5 女、6 女は広島市から遠く疎開していて難を

免れました。

翌朝、父と長女が敏子を探しに山を下りました。市内は、どこも瓦礫の山と血にま

みれた被災者と死体と…、生き地獄でした。焦熱を避けようと川に飛び込んだ女学生

の死体がびっしりと並んだ川岸もありました。貯木場は、浮いた死体で埋まっていま

した。翌日も次の日も…、ついに敏子は見つかりませんでした。

わたしは、被爆で頭部が膿み、目、鼻、口だけ出して包帯でグルグル巻きにされ、

周囲で息絶えていく大人と同じように、間もなく死を迎えると見られていました。

1 歳のそのわたしが、記憶のあるもはずもない被爆体験を語る。不思議に思われる

かもしれません。

母は、毎年8 月6 日、子どもを集め、被爆当時の広島を、涙を流しながら話し聞か

せました。時には、祖父、父、姉たちも加わり、それぞれの体験を話しました。ある

とき、母に、辛い思いをしてなぜ被爆体験を語るのかと尋ねたことがあります。母は、

「あんたらに2 度と同じ体験をさせとうないからじゃ」と答えました。

高校生の頃には学校の図書室で写真集や原爆詩集、体験記など読みふけりました。

それらが、被爆当時1歳で記憶のあるはずもないわたしの血となり肉となり、わたし

の心の体験になったのだと思います

詳細

http://www.antiatom.org/Gpress/wp-content/uploads/2015/04/%E8%97%A4%E6%A3%AE%E4%BF%8A%E5%B8%8C-globalhibakusha.pdf#search=%27%E8%97%A4%E6%A3%AE%E4%BF%8A%E5%B8%8C%27

被爆者「地獄の再現ならぬ」 核禁止条約交渉会議

(朝日新聞デジタル - 03月28日 14:28)